アポストロフィーS

ワンワン!ワンワンワン!

鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」

(なかなかうまくまとめられなかったネタとして、テレサ・テンのデビューアルバムの件があったんですが、ひょっとしてライナーノーツ形式ならうまくまとめられるんじゃないか、と思いついたのでやってみることにしました)

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鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」1stプレス ジャケ

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鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」2ndプレス ジャケ

1967年(民國56年)に台湾で発売された、後のテレサ・テンこと鄧麗君(デン・リーチュン)のファースト・アルバムです。

内容はカバー曲集です。ジャケットにある「The Modern Popular Songs Of China」という文言のとおり、姚莉(ヤオ・リー)、劉韻(リウ・イン)、周璇(チョウ・シュアン)といった上海~香港歌手の有名曲がメインで、おそらくこのあたりがデビュー当時の彼女のレパートリーの中心だったのでしょう。

鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」

鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」原曲集

後述の曲目紹介欄にてくわしくご紹介いたしますが、各曲目の背後には上海・香港映画──とりわけ國語=普通話=北京語の歌曲をメインとした多くのミュージカル映画があります。当時の鄧麗君にとって、また、彼女の歌声を支持した華人社会──「華語圏」(©貴志俊彦)の大衆たちにとって、これらの映画こそ文化の中心だったはずです。*1

当時の鄧麗君はまだ14歳ですが、前年にはすでに台湾電視公司(地上波テレビ放送局:台湾テレビ)の専属歌手となっていました。ジャケに「電視紅歌星」と入っているのは、そのことに由来しています。当時、すでにテレビのスターだったんですね。

歌手活動の多忙により、学校側から学業専念か歌手活動かをせまられ、これに反発した彼女の父親と学校側が揉め、結局中退することになってしまったのがこの年──1967年です。台北の高級クラブ「夜巴黎(イエパリ)」での70日間公演のロングラン記録を作ったのもこの年です。*2

このアルバムには二つのバージョンがあり、A面4曲目がそれぞれ違っています。ひとつは「女兒圈」という曲のもの。もう一つは、彼女の生涯をとおして歌われた「何日君再來」──それを改題した「幾時你回來」のものです。
当時の台湾では「何日君再來」は文化統制の名のもと「禁歌」とされていたため、検閲を通すために、まず「女兒圈」収録のファーストプレスが発売され、その後「幾時你回來」収録のセカンドプレスが発売されたのだそうです。*3 

ちなみにファーストプレスのレコードレーベルでの表記では「民國56.9出版」となっており、おそらく八月頃の発売ではないかと考えられます。日本でも雑誌などが表記より1ヶ月くらい前に出るのと同様です。

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鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」裏ジャケ

ジャケット裏の表記によると、編曲・指揮として怯天林という方の名前がありますが、詳細はよくわかっていません。ですが、オークションサイトにてこんなアルバムを見つけました。

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時代國學演奏集ジャケ

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時代國学演奏集 裏ジャケ

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時代國學演奏集 レーベル面

「民國60年10月出版」とありますから、鄧麗君之歌第一集「鳳陽花鼓」発売から4年後の1971年ですね。内容は聴いてないですが、ジャケットから想像するに、当時の土産物アルバムではないかと推察されます。


■A面

01 - 歡樂今宵 [曲:葛士培 / 詞:葉綠]
オリジナルバージョンを歌っている蓓蕾(ベイ・レイ)は香港の歌手です。『歡樂青春 (The Joy of Spring)』(1966年)という映画で姚莉・靜婷(シン・ティン)とともに主題歌を歌っており、この曲も挿入歌としてパーティシーンに使われています。
50~60年代の香港映画は出演者とは別に専属歌手が歌うという、いわゆる『アイカツ!』と同じスタイルで作られていますので、映画に出演しているわけではありません。
原曲はキレのいいツイスト曲──作曲の葛士培とはフィリピン人ヴィック・クリストバル──なんですけど、鄧麗君のバージョンでは少々もっさりしたアレンジと演奏で、このあたりが「中国伝統音楽バンドが無理して」*4 演奏してる感をかもし出しているゆえんと言えるのではないかと。

02 - 姑娘十八一朵花 [曲:鄧雨賢(唐崎夜雨) / 詞:莊奴]
1958年頃に南京出身の台湾の歌手・紫薇(スー・ウェイ)が歌ったのが國語版オリジナルバージョンなのだそうです。しかし、紫薇はレコーディングの機会に恵まれていなかったため音源は存在せず、ほぼ同時期に歌いレコードになっている劉韻がオリジナルだと思っている方が多いようです。
鄧麗君のバージョンは、紫薇、劉韻、どちらをお手本に歌っているのでしょうね?
「♪娘十八花盛り」というわかりやすいテーマや歌詞の現代的なユーモラスも相まって中華圏ではスタンダード曲となっているほどの人気の曲で、他にも台湾語版や客家語版、広東語版(香港)、潮州語版(マレーシア)があるようです。1966年には同名の香港映画が作られています。
もともとの原曲は1936年(昭和11年)に鄧雨賢が作曲し周添旺が台湾語の歌詞をつけた「黃昏愁」なんだそうです。その後1939年(昭和14年)に「蕃社の娘」という日本語曲として、コロンビアレコードから日本発売されます。歌っているのは佐塚佐和子(サワ・サツカ)、なんと霧社事件(台湾先住民による抗日蜂起事件)で殺害された警部の娘さんなのだそうです。

03 - 知道不知道 [曲:姚敏 / 詞:樂韻]
1966年の香港映画『落馬湖 (Gun Fight at Lo Ma Lake)』の挿入歌で、劉韻が歌っているのがオリジナルバージョンです。そちらは、うっとりするような中華っぽさあふれる美しいアレンジなんです、まるで天女が舞うような。鄧麗君のバージョンは、もう少しスピードを早めたような、チャカチャカしたアレンジになって いますね。
作曲の姚敏(ヤオ・ミン)は姚莉の実兄で、服部良一と親交のあった上海~香港の音楽家です。残念ながら、このアルバムの発売前である1967年3月に亡くなっています。

04 - 女兒圈 [曲:王福齡 / 詞:狄薏(陳蝶衣)]
オリジナルバージョンは1962年に潘秀瓊(ハン・ショウチョン)が歌いました。原曲は典型的な中華っぽいアレンジなのに対して、鄧麗君のバージョンは日本の歌謡曲、それもエレキ歌謡っぽさがありますよね、いわゆる「一人GS」(©黒沢進)。ちなみに一人GSの代表曲である美空ひばりの「真赤な太陽」が1967年(昭和42年)5月発売。当時最先端のアレンジだったんですね。
どうしても「幾時你回來 (何日君再來)」の差し替え用の曲みたいなイメージで見られがちですが、自分はアレンジからして重要曲だと思います。

04 - 幾時你回來 (何日君再來)  [曲:劉雪庵(晏如) / 詞:黃嘉謨(貝林)]
いわずと知れた中華圏最大のヒット曲にして、テレサ・テンという歌手にとってなくてはならない最重要曲と言えるでしょう。テレサって、デビュー当時から「何日君再來」を歌ってたんだなーって、ファンなら思わす興奮してしまうでしょう。
もともとは作曲者の劉雪庵(リュウ・シュエアン)が、1936年7月に上海の音楽学校の歓送パーティにおいて即興的にタンゴのダンス曲を創作したものが原曲なのだそうです。*5

1937年に上海映画『三星伴月』の挿入歌として、映画の脚本を担当した黃嘉謨(ホワン・ジアモ)が作詞をし、周璇が歌い大ヒット。
1939年に黎莉莉(リー・リリ)が香港映画『孤島天堂』(上海を舞台にした抗日映画)の主題歌として歌い、これもヒット。日本では夏目芙美子(羅仙嬌)、渡辺はま子が同じく1939年にレコードに吹き込んでいますね。
以下は自分の憶測であることをご了承いただきたいのですが、もともとこの「幾時你回來 (何日君再來)」が4曲目として用意されていたのではないでしょうか? だって、「女兒圈」の一人GSアレンジって「The Modern Popular Songs Of China」をうたうこのアルバムで、あまりにも異色ではないかと思うんですよね… 。
おそらく先にレコーディングされていた「幾時你回來 (何日君再來)」が、検閲に引っかかりそうになり、急遽「女兒圈」が用意され、差し替えられた…のではないかと思うんですが、どうでしょう?
この仮説なら、ファーストプレスの混乱ぶり──裏ジャケに「女兒圈」と表記があるにも関わらず、実際に収録されているのは「幾時你回來 (何日君再來)」というバージョンが存在すること──も、説明がつくのではないかと。
ただ、これは全く裏が取れていない、個人的な妄想レベルの仮説にすぎないことを強調しておきます。

05 - 只有一個你 [曲:佚名 / 詞:狄薏(陳蝶衣)]
オリジナルバージョンは女優の張仲文(チャン・ジョンウェン)が歌っています。1958年の映画『地下火花 (Flame in Ashes)』の挿入歌になっています。この映画はタイと香港の共同制作です。
張仲文は「噴火女郎 (火を吐く少女)」「最美麗的動物 (最も美しい動物)」とあだ名されるセクシーな女優として知られていました。河北省出身で軍人一家に育ち、自身も15歳の時に空軍兵士と結婚、2児をもうけます。1949年頃に台湾に移住。生活が苦しかったのでしょう、ほどなく離婚して舞台女優となり、その後映画界へ。1957年からは香港映画界へ進出し活躍しています。
台湾から香港へ──それは後の鄧麗君=テレサ・テンもたどった道筋ですね。

06 - 月夜相思 (明月千里寄相思)  [曲:金流(劉如曾) / 詞:金流(劉如曾)]
オリジナルバージョンは吳鶯音(ウ・インイン)が1948年に歌っています。吳鶯音は戦後に歌手デビューした方ですが、40年代の上海七大歌后の一人に数えられています。あだ名は「鼻音歌后」。
1922年寧波で生まれ、上海で育ちました。子供の頃から歌うのが好きだったのですが、両親は彼女に医学の道に進むよう望んでいました。このため、彼女は家族に内緒でラジオ局で歌うようになりました。その後、ナイトクラブなどで歌い、1946年に百代レコードと契約、レコードデビュー曲は「我想忘了你 (私はあなたを忘れたい)」でした。中華人民共和国成立後もしばらく上海にいましたが、1957年に香港に引っ越しました。
この曲「明月千里寄相思 (輝く月が千マイルを越えて私の想いを送る)」も彼女の代表曲の一つで、現代でも歌い継がれている中華圏でのスタンダード曲となっています。

■B面

01 - 鳳陽花鼓 [曲:佚名 / 詞:黎錦暉]
作詞の黎錦暉は「中国ポピュラー音楽の父」と呼ばれています。中国最初の流行歌「毛毛雨(マオマオユー)」の作詞・作曲者であり、上海で「中華歌舞専門学校」~「明月歌劇社」を設立させ、多くのエンターティナーを育成しました。この曲のオリジナルバージョンを歌っている周璇もその一人です。レコーディングは1934年8月、周璇が映画スターになる以前の14歳の時です。そう、このアルバムが発売された時の鄧麗君と同い年なんです。
曲自体は中国・安徽省の民謡で、明や清の時代に流行し、後に京劇や昆劇などの演目にもなりました。現在でも歌い継がれおり、旧正月には欠かせない曲なのだそうです。
ちょうどこのアルバムが発売された頃、台湾製作の同タイトルの映画が公開されており、翌年には香港でも公開されています。この映画、姚敏も音楽監督として関わっており、歌っているのは劉韻です。

02 - 搖搖搖 [曲:顧嘉煇 / 詞:林以亮]
オリジナルバージョンは1966年に靜婷(シンティン)が歌っています。1966年の香港映画『何日君再來(Till the End of Time)』の挿入歌です。胡燕妮(ホー・イェンニー)という方が主演女優で、この方は台湾出身なんです。
前述のとおり、当時の香港映画は『アイカツ!』方式なので、主演女優とは別に、歌っているのは専属の歌手です。映画の中で主演・胡燕妮の役どころは歌手なのですが、歌っているのはすべて靜婷です。
ちなみに映画の中で「何日君再來」という曲は流れません。いや、そのタイトルの曲はあるのですが、別の曲なのです。
中国のウィキペディアにこんな記述がありました。

1966年、香港のショウブラザーズは『何日君再來』という映画を撮影しましたが 、その歌が台湾で禁止されていることをショウの会社が知ったことは一度もありませんでした。興味深いことに、台湾行政院新聞局は香港映画を禁止していません。

1966年,香港邵氏公司拍了一部名叫「何日君再來」的電影,同名歌曲也出現在影片中,其中有趣的是,邵氏公司一直都不知道這首歌曲在台灣有禁令,而更有意思的是,台灣行政院新聞局也並未禁播這部香港電影。

曲自体はツイスト曲で、原曲では男性コーラスが入っていてとてもいい感じなんですが、なんのなんの鄧麗君バージョンの歌いっぷりも負けていません。最初の「ウーヤ♪」から最後の「ヤーヤ♪ヤーヤ♪ヤー♪」まで、終始ノリノリで、聴いてるだけでウキウキしますね。

03 - 桃花江 [曲:姚敏 / 詞:司徒明]
オリジナルバージョンは姚莉が歌っています。1956年の香港映画『桃花江』の主題歌です。
この映画は黎錦暉の作詞・作曲による同名曲──こちらのオリジナルバージョンは周璇とその最初の夫・嚴華の合唱で1934年7月録音、ちなみにそのレコードのB面曲が「鳳陽花鼓」──をもとに作られているのですが、前述の映画『何日君再來』と同様に、その元曲は使われず、新たに作られた曲が使われているわけです。この方式の元祖的な映画がこの『桃花江』のようです。
以下、貴志俊彦先生の『東アジア流行歌アワー』より引用。

香港に移ってきた「国語」映画人たちは、四九年に「広東語映画清潔運動宣言」を発表し、暴力や性的描写満載の現代劇作品からの離脱を唱え、五六年から五九年にかけてミュージカル映画の黄金時代を築いた。映画のなかの歌は、役者ではなく、有名な歌手が吹き替えをしていたので、映画のヒットは同時にレコードの販売に直結した。流行のきっかけとなったのは、黎錦暉が作曲した「桃花江」をもとに、新華が五六年に製作した映画「桃花江」だった。監督は張善琨、王天林、音楽監督は姚敏が担当した。姚敏は主題歌の「桃花江」をはじめ、挿入歌の「月下対口(月下の掛合)」「採花歌」「花児比姐児(花は女性よりも)」「春天不見了(まだ見ぬ春よ)」「擦鞋歌(くつみがきの歌)」「我睡在雲霧裡(霧の中で眠る)」「龍燈與風箏(灯火と凧)」「我說東來你說西(私は東、君は西)」「為甚麼(どうして)」など全一二曲の作曲を担当した。映画の主題歌(作詞司徒明、作曲姚敏)を歌ったのが、上海から香港に移ってきた姚莉だった。こうして、姚敏は、香港の「国語」流行歌を主導していくことになった。
(P222-223)

 04 - 黃昏小唱 [曲:江風(李厚襄) / 詞:方忭(陳蝶衣)]
オリジナルバージョンは1963年に劉韻が歌っています。
劉韻は、いわゆる黄梅調に長けた歌い手で、当時の鄧麗君にとっての憧れであり目標の一人でもあったのは間違いないと思われます。歌い方もちょっと似てませんか?
劉韻は1941年生まれで出身地は北京です。1958年に姚敏の推薦で香港百代レコードにて歌ったのがデビューのきっかけと言われています。小調(マイナー調)の曲が得意なことから「小調歌后」と呼ばれています。

05 - 一年又一年 [曲:姚敏 / 詞:陳蝶衣]
オリジナルバージョンは1961年に姚莉が歌っています。
姚莉も、当時の鄧麗君にとっての憧れであり目標の一人でもあったのは間違いないでしょう。周璇が「金嗓子(チンサンズ)」──黄金の喉声と呼ばれていたのに対して、姚莉は「銀嗓子(インサンズ)」と呼ばれていました。
姚莉は1922年生まれ、上海出身です。13歳で百代レコードからデビュー、大人気ではありましたが、当時の彼女は周璇のフォロワー的な立ち位置であり、それがこのニックネームに表れていると言えます。
その後姚莉は歌い方を模索し、1947年の「帶著眼淚唱 (涙を浮かべて歌う)」あたりから黒人のブルース的な唱法を取り入れ、成熟した歌い手として成長していきます。そう、まるでいぶし銀のごとく。
1950年に香港に移り、そこからは香港の代表的な歌手になったといっても過言ではない大スターとなりました。
前述のとおり、姚莉の5歳年長の兄である姚敏が1967年3月に急逝してしまいます。姚莉はこのことで大変なショックを受け、歌手活動をやめてしまいます。
姚莉は、2019年7月19日の朝亡くなったそうです。96歳でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

06 - 做針線 [曲:姚敏 / 詞:陳蝶衣]
この曲は1960年の香港映画『多情的野貓 (The Amorous Pussy-cat)』の挿入歌です。映画のほうでは姚莉が「幕後代唱」していますが、レコードのほうでは于飛(イーセイ)が歌っています。ややこしいですが、おそらくレコード会社の契約関係でそうなっているのではないかと。
どちらがオリジナルバージョンにあたるのかは正直よくわかりませんが、鄧麗君之歌第二集「心疼的小寶寶」──すなわちセカンドアルバムの1曲目に姚莉がオリジナルバージョンの曲「人生就是戲」をもってきてることを考えると、鄧麗君的には姚莉リスペクトだったのではないでしょうか。

 

*1:*1 日本ではおしなべて未公開ですが、字幕・翻訳にこだわらなければインターネット上で観ることは、さほどむずかしいことではありません。

*2:*2 平野久美子『テレサ・テンが見た夢』(ちくま文庫 2015)

*3:*3 after you 「宇宙時代の鄧麗君」

*4:*4 EL SUR RECORDS 「鄧麗君 TERESA TENG / 〜宇宙唱片 ORIGINAL 復刻 CD」

*5:*5 中薗栄助『何日君再来物語』エピローグ(河出文庫版 P318)