アポストロフィーS

ワンワン!ワンワンワン!

以下、書きなぐり。

 ずっと疑問に思っていることがある。
 ちょっと前のイラク戦争の時だ。
 爆撃されるイラク。オレには、あれはまるで、60年ほど前の日本にしか見えなかった。ワールドセンタービルに突撃する航空機。あれも、60年ほど前の日本にしか見えなかった。神風の悪夢の再来だと。どう考えても、あれはかつての日本じゃないかと思った。


 でも、周囲の反応はまるで違っていた。
 そんなことを言うオレは基地外みたいな扱いだったし、詰め寄れば北朝鮮の脅威の前にはアメリカにたてつくことは出来ぬと、被占領国の屈辱まるだしのことを言いやがる。反戦を口にするヤツがだぜ? どのツラ下げて「反戦」だと死ぬほど怒ったし、心の底から軽蔑したが、周囲では誰もオレに賛同してくれはしなかった。


 今日は朝からちゃんと起きて、広島の平和公園の中継を見た。元広島県民として、当然のことだ。もちろん、黙祷も捧げた。自分にできることは、せめてこのくらいのことだからだ。


 オレは、マンガ『はだしのゲン』が好きだ。大好きだ。今でも、あの浪曲の場面を見ると涙が出てくる。そう、前にここでも書いたけど、例の『壺坂霊験記』を演る場面だ。原爆投下前に、広島の路上で乞食のナリをして、ゲンとシンジの兄弟二人で(小学生と小学入学前の子だよ?)が、浪速亭綾太郎の十八番を演るのだ。当時、浪曲はラジオ放送を通じて大衆のものだった。で、原爆投下後、江田島の農家で、米を得るためゲンは一人でこれを演る。オレは、この場面を何度読んでも泣きそうになるし、ここでの選曲が『壺坂霊験記』というあたりに、何やら思い入れを感じる。


 という話を書いても、所詮今の人々にはわかるまい。まともに近代史の勉強もしておらず、ましてや高度経済成長以前の日本の姿について考えたこともないだろう。高度経済成長以前とは、冷蔵庫・洗濯機・テレビといったいわゆる「三種の神器」のない生活があたりまえだった時代のことなのだ。具体的に想像することはもちろんできかね、テレビ世間にどっぷりひたり、テレビを見ない人間を「ノリの悪いヤツ」「空気の読めないヤツ」と疎外するしかなく、その実テレビの話題以外になんら共通の話題をもちえない人種。
 まあ、だいたい浪曲を知らないんだからこりゃもうしょうがない。講談も知らないだろう。そんな輩が、やれワールドミュージックだのナンだの言って、アジア大陸ののどうたを聴いていたりする。チベットの声明を聴いていたりする。だから、それは浪曲や演歌とどう違うんだよ。歴史的な成立過程からすれば、双子とは言わないまでもいとこ・はとこ程度の関係とは言えると思う。節談説教起源説をとればだけど。おっと話が脱線した。

 そういう輩が「歌」に「希望」を見出し、勝手な妄想を煽り立てて「反戦」だの「平和」だのという「政治」的な道具に仕立てようとしていたりする。子どもたちに歌を歌わせて、政治のコマにしてしたり顔をしていたりする。「音楽に国境はない」*1などとしたり顔で語ったりする。もっとも最悪の、醜悪な光景だと思う。


 平和のために、さまざまな体験を語り継ぐのもいいだろう。しかし、時代とのギャップや、もはや忘れてしまった、忘れられて久しい事々について、きちんとフォローできるだけの情報量があるのか? そういう準備がちゃんと整っているのか?
 あるいは語るヤツ自身が、とうに忘れ去ったことではないのか? 語るうちに、自身の記憶の中にある本当の記憶は劣化されてしまっているのではないか? あの時代ゆえのリアリティが反映された、そんな言葉、そんな作品はあまりに少なくないか?


 高度経済成長前の主なエネルギー源は石炭だった。だから、日本各地にもボタ山がいっぱいあった。炭鉱労働者がいっぱいいた。貧しく無学な無告の民は、炭鉱に行くしか他になかった。そういう大前提から語らねばならないのではないのか? 今でも盆踊り歌の一番有名な曲は「炭坑節」であることを思え。


 そんなに変わっていないという。しかし、とりかえしのつかないくらい、日本はかつてとは変わってしまった。ちょっと近代史を勉強すれば、イヤでもわかるはずのことだろう。しかし、そういう「近代史」をきちんと語れる教師が、今どのくらいいるのだろう?
 すべては約束事、決まりきったルールをなぞるだけ。そこにある「意味」は全く省みられることのないままに廃れていく一方で、そういったことをつまらないこと、「旧弊」な、「封建的」な、「イケてない」こととして排除しようとするアホウが跋扈している。
 かくして日本に変化はなく、その実変化しすぎてて計測不可能な状態に陥っている。高度経済成長以前と以後で全く違うのに、同じ近代史を勉強してるはずのヤツにそのことを言えば、オレは「高度経済成長」にこだわりすぎているんだそうだ。信じられなくて愕然としたよ。冷蔵庫・洗濯機・テレビがあるのとないのでどれだけ生活実感が変わるか、どうしてわからないのかと。

 本当にわからないなら、今すぐテレビを消してくれ。洗濯機を使わず洗濯してみてくれよ、風呂場でいいよ。上下水道が完備され、ライフラインが確保された現代なら、実際はかつてよりかなり楽なはずだろう。冷蔵庫を使わずに料理を作ってくれよ。それがそもそもの伝統的な「日本食」だろう。国民の八割が貧しい農民だったという。粟や稗を食ってしのぎ、米はごちそうだったという。粟なんて、今や飼い鳥のエサくらいしか売ってないもんね。そんなペットのエサが主食とか、どうよ?
 戦争体験を聞く、というレベルじゃなく、かつての歴史を知るということは、その気になればいくらでもできるんだ。『はだしのゲン』を読んでみるといい。とにかく歌がいっぱい出てくる。上に挙げた浪曲以外でいうと、鹿児島の特攻隊の大学生の学徒動員のコが、田端義夫の「ズンドコ節」を歌ってたりする。ニヒルな登場のシーンでだよ? このシーンの選曲意図を考えてみてよ。とは言っても、当時の田端義夫と現代の田端義夫のイメージは、もちろん同じではない。言わずもがなだが、このあたりの時代ギャップを考え、その上でなお、歌の持つ意味を考察する必要がある。
 そのほか、替え歌だの流行歌だのがワンサカ出てくる。テレビ以前の時代ゆえの、歌の持つ力への信仰がみなぎっていると言える。その一例が朝鮮人差別の替え歌だ。作者は批判的に取り上げているのだけれど、こういう歌がかつてはあったという事実を闇に葬り去りはしなかった。みんなが口にしたであろう歌を、的確に配置している様子は貴重な民俗資料と言える。



 ああ、とりとめもなく書きなぐってしまったです。すみません。なんか、日頃書けないこと、あえて書かないことを、今日は書いてみたかったので書きました。


*1:こういった発言をするスティールパン関係者、トリニ音楽愛好家は、全員トリニフラッグを振るな!と言いたいね、オレは。それはトリニ・ナショナリズムである自覚くらいは持とうよ?