高野文子「私の知ってるあの子のこと」〜短編集『棒がいっぽん (Mag comics)』収録
- 作者: 高野文子
- 出版社/メーカー: マガジンハウス
- 発売日: 1995/07/01
- メディア: 単行本
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先生が言う──「みなさん、ジャーヌをゆるしてあげましょう。ジャーヌがちょっとくらい悪い子でもかんべんしてあげましょう。/なにしろジャーヌはみなさんよりもふしあわせな家庭の子供なのですから」
近代民主主義の欺瞞の見本のようなセリフですよね。やさしさや寛容という体裁を取り繕った差別でしかないのですからね。かくて子どもは「いい子」にさせられます。親や学校の先生がそれを望むからです。最初の社会化です。でもそれって、ようするに大人の顔色を伺わせ、先回りしていい子を演じるように仕向けているってことだったりします──「ひとより早くとよくばるから とうとう一つももらえない ジャーヌはあんぽんたんだ」。
そして、そこからはみだす子どもは、「悪い子」というカテゴリーに放り込まれます。ほうりこまれて、差別の対象にされ、孤立します。これがそのまんま「いじめの構造」とおなじであることに気付くのは、そんなにムツカシイことじゃないはずです。ジャーヌはこうして出来上がります。
しかし、期待に答えなければいけないのだと思い込まされている優等生のいい子ちゃんから見れば、「悪い子」として、「かわいそうな子」として、被差別対象ゆえの特権をもっているように見える。少なくともその期待の重圧からは逃れているように見える。だからこそ、ピアーニはジャーヌに憧れるのです、嫉妬するのです──「やっぱりジャーヌのほうがいいみたい」と。
高度経済成長からこっち、子どもの自我は、まず民主主義の「みんな」がインプットされ、その「みんな」に合わせられるような自我を持たされます。「いい子ちゃん」の自我です。みんながみんなではありません。はみ出す子もいます、ジャーヌのように。ですが、デフォルトとしてこういう自我を持たざるを得ない社会になっているようにぼくには感じられます。そのもたされた自我の心の奥底で、あなたも思っているのではないですか?──「先生 いい子でいると なんかいいこと あんですか?」。
ある日ピアーニは
往来でころんで
ひざをすりむいてしまい
だけど ひざよりも
ちぎれた服のボタンの
根もとに巻きついている糸を見て
「ああ ここにはお母さんの力はとどかない」
そんなことを思う 子供になってしまったのだ
それでも君は、まだ
ピアーニを
しあわせな子供だと言えるか
ぼくはこのマンガのラストが大好きです。ネタバレになるので、ここでは紹介はしません。すべての子どもがたどる道がしるされたこのラストの広がり! 親や先生が介在しない関係を暗示いるのだとぼくは思う。
付け加える。この高野文子作品に負けないくらい、昨日見たプリキュアMH15話はよかったのだ。ここまで言っても、まだ興味をもってはもらえないですか?