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ワンワン!ワンワンワン!

『エッソ・トリニダード・スティール・バンド!』

エッソ・トリニダード・スティール・バンド!

エッソ・トリニダード・スティール・バンド!

 今日は大ネタです。これは1998年に世界初CD化として、日本でリイシューされました。最近はナゼかヌードのおねえちゃんジャケのドイツ盤(下の画像参照)が出回っていますが、内容は同じモノですから、日本リイシュー盤を持っているヒトは買わなくても良いです。もっともヌードのおねえちゃんジャケが欲しい方は即効GETでよろです。
Esso
 おっと、一応念の為。スティール・パンというのはドラム缶を鍋状にへこませて、そこに凹凸を作り、音階が出るようにした楽器であり、スティールバンドとはスティール・パンばかりが集まってオーケストラになっているグループを指します。ぼくもちょっと前まであるバンドで叩かせてもらってました。すごーくキレイな音なんですよー。
 日本リイシュー盤のライナーノーツを湯浅学さん(ex.幻の名盤開放同盟)がお書きになってらっしゃるのですが、この文章、スティール・パンについてはかなりまとまめて書いていらっしゃるものの、肝心のバンドについて情報が皆無でありまして、ライナーとしてはちょっとどーなの??という感なきにしもあらず。ってことで、今回ネタにするにあたり、ネットでサクっと調べてみますた。
 まずはプロデューサーであるヴァン・ダイク・パークス先生のページから、こちら。あ、当然英語ページですので、よろしくです(笑) ちなみにワンワンは英語はもちろんできませんが、ありがたいことにネットには翻訳サイトがいくつかあります。代表的なところでインフォシークやエキサイト、ぜひ試してみましょう! 上記ページによると、ホントのバンドの名前はTHE ESSO TRINIDAD TRIPOLI STEEL BANDであることが分かります。
 バンドの結成はスティールバンド草創期にさかのぼります。すなわち1930年代の終わり頃です。その頃トリニダード・トバコはまだ独立しておらず、貧しい民に満ちていました。ストリートには大勢の不良少年たちが徒党を組み、お祭り(カーニバル、ないしはバッカナル!)ともなれば大騒ぎ! 当時の流行りは竹でできた音階のある打楽器タンブー・バンブーです。
 コレは当時の権力が民衆蜂起を恐れて禁止した、という「伝説」がありますが、まちがいはないんですけど、楽器そのものを知れば禁止ももっともと思うでしょう。なんせほとんど竹槍ですからね(笑) 先っぽは尖らせといて、徒党を組んでるチーム同士が路上で出会おうものなら一触即発! 流血の大惨事です、ほとんどそこらへんの暴走族のあんちゃんたちと同じですよ。
 で、さらなるバカ騒ぎを求めて、連中はクッキー缶なんかを叩くようになります。こうして40年代初頭には初期のスティールバンドがいくつか出来てきます。「誰がパンを発明したか?」というのはよく話題になりますが、一時期はウィンストン“スプリー”サイモンが作ったとまことしやかに語られましたが、実際はこの不良少年たちの競い合いからだんだんと発展していった、ということのようです。
 そうした初期のスティールバンドの中にTORIPOLIもいるんですな。初期のスティールバンドはほとんどみんなアメリカ映画からバンド名をつけていますが、このTORIPOLIも例外ではありません。1943年のアメリカ映画『トリポリ海兵隊よ永遠なれ(原題:To the Shores of Tripoli)』が元ネタです。映画の内容は「日米開戦直前のカリフォルニア州サンディエゴの海兵隊基地を舞台に、海兵隊の魂を高らかに謳いあげる戦争ドラマ。ジョン・ペインモーリン・オハラほか出演」てなもの。
 ちなみに今もある有名バンドでは、Desperadoesが1943年の『無法者(原題:The Desperadoes)』という西部劇映画から、Renegadesが1945年の『国境の裏切り者(原題:Renegades of the Rio Grande)』というこれも西部劇映画から、The Invadersが1942年の『The Invaders』という戦争映画から。このあたりはジョージ・ゴダードという人の『スティールバンドの40年(原題:Forty Years in the Steelbands: 1939 - 1979)』に詳しいです。興味ある方はぜひ。
 33年生まれのHugh BordeがTORIPOLIのリーダーになったのは18歳の時で、1951年の時です。この時彼はすでに優れたピンポン・ソリストであったそうです。あ、言い忘れてました、ピンポンというのは初期のパンの呼び名で、ポータブル・ピアノという意味なんだそうです。もっともポータブル・ピアノなんて言っても草創期のパンの音階は4つ。これがだんだんと、まるで細胞分裂でもするかのように音階が増えていき、今のテナーパンのような楽器へとエレガントに進化していくのですが、50年代頃にはかなりの音階があったと考えられます。戦後すぐのカーニバルだか音楽フェスだかで、たしかエリー・マネット(パンイノベター最重要人物!)率いるThe Invadersが早くもクラシック曲を演奏しているはずですから。
 60年代初頭、トリニ独立前夜ですね。スティールバンドはすでに独立のために欠かせない文化大使としての役割を担わされており、音楽フェスも当時は盛んだったようで、TORIPOLIもこれにかなり出場したようです。65年にはESSOがスポンサーとなり、これで「THE ESSO TRINIDAD TRIPOLI STEEL BAND」となるわけです。で、ヴァン・ダイク先生のサイトでは割と詳しくバンドの輝かしい歴史について書いてるワケですが、ぼくの英語力がないため割愛(笑)
 音源ですが、このヴァン・ダイク先生プロデュースの前に2枚ほどアルバムが出ているようです。67年と68年にカナダから。この時期に万博のパビリオンにて演奏しているようですから、おそらくそのツアーからの録音なんでしょう。また、この時期に世界的に有名なピアニストであるらしいLiberaceというヒトといっしょにツアーを回っています。なんと2年近く。
 たぶん、この頃にヴァン・ダイク先生はパンを知ったのでしょう。時期的にはヴァン・ダイク先生がワーナーの社員になる前くらい、まさにブライアン・ウィルソンにさそわれて伝説のアルバム『スマイル(あるいはダム・エンジェル)』を作っていた頃ってことです。あ、ビーチボーイズ知らないヒトにはどうでもイイ話でしたね…(´Д⊂グスン