≪音を楽しむ≫と書いて≪音楽≫???
思いつきで更新。
これまで、「≪音を楽しむ≫と書いて≪音楽≫だろ」という主張を伺うたびに、「たしかにそうだよなあー」と素直に思ってきたのですよ。ワタクシ意外と素直ですから(キリッ
けれどもふと、「あれ?語源的には違くね?」と思いついちゃったんですよ。
考えてみれば、≪楽≫という字は別に≪楽しい≫を第一義にしたものではないんですよね。これは、『論語』にたびたび出てくる≪礼楽≫の≪楽≫だよなーと。
孔子先生は夢に見るくらい周公を尊敬なさっておられた。周公の時代こそ、孔子先生の理想であった。孔子先生のおっしゃる≪礼楽≫は、だから周公の時代の様式を理想としている。ようするに孔子先生でさえお釈迦さまの同時代人ってくらい古い人なのに*1、そのさらに古い古い時代のものなワケですよ。
≪礼≫に関しては、まあ礼儀とか礼節とかを思い浮かべてもらえばよいかと思う。≪楽≫については、まあ≪音楽≫ではあるんだけど、≪音を楽しむ≫ものかというと…うーん、ちょっと意味が違くね?となってしまうんじゃあないかなあーと思うのです。
古代において音楽ってなんだってことになると、≪舞楽≫と言って踊りとセットになっていた。
「なんだ、ダンスミュージックじゃん!今と変わらないじゃん!やっぱ≪音を楽しむ≫=≪音楽≫じゃん!」
いやいやいやいや、待て待て待て待て。
誰が楽しむものかが今と昔じゃ違っているようなんですよ。
今は、リスナーもプレイヤーもみんなが楽しく、みたいな。まあ良くも悪くも民主主義をハンエーしてると言えるんじゃないかな、うん。
古代では神を楽しませるためのものであったようなのね。雨乞いとかそっち系。シャーマンとかいたことか恐山とか。呪術とか占いとか吉凶とか。
「神だろうが誰だろうがなんだろうが、やっぱり楽しむためのものだったんじゃん!やっぱ≪音を楽しむ≫=≪音楽≫じゃん!」
うーん、そこまでその主張に固執するなら別に構わないんだけど;^^*2
どうも調べてみると、明治になるまで≪音楽≫なんてポピュラーな言葉はなかったみたいなんですよ。ほら、喪に服する時とかってさ、≪歌舞音曲≫って言うでしょ?
それから、明治以前からあった言葉≪猿楽≫とか≪雅楽≫って、別に≪猿≫だの≪雅≫だのが≪楽しい≫ってことじゃないじゃん?
たぶんだけど、英語のミュージックに対応する言葉として≪音楽≫という言葉が用いられたのが、巷間に流布していく間に素朴な俗説として「≪音を楽しむ≫=≪音楽≫じゃん!」となったのではないかなーと思うんですよね。
まああえて「素朴な俗説」って言ってるのはですね、ようするにちょっと薄っぺらい考えなんじゃないかなあーってことですよ。薄っぺらくね? その発想も、その発想に固執しちゃうのも。
調べてみると、≪楽≫って字はもともと≪樂≫で、これは鈴をもって立っている or 踊っているもののようなんですよ。ソースは故・白川静先生の『漢字』(岩波文庫 青版747 P143-144)。
つまり、楽器のことなんだよね、≪楽≫って。≪たのしい≫とか≪ラク≫っていうのは後からついた意味なんだって。
あわててつけくわえておくんだけど、別に「≪音を楽しむ≫と書いて≪音楽≫だろ」っていう主張がまちがっている!って言いたいワケではないんですよ。それはレトリックとしてはオモシロイと思うし。
ただまあ、その考えが絶対じゃないよっていうか、歴史的な視点からするとその考えに固執しすぎちゃうのはどうなの?的なアレなんですよ。
考えそのものより、固執しちゃう態度っていうか、スタイルみたいなものに対して、唯一絶対の素晴らしい考えではないんじゃね?っていうのは言いたいかな、みたいな。思考停止になっちゃってね?とかね。
なんらかの考えを絶対的なものと考えて固執しちゃったり、それをスローガン化して他人に押し付けちゃったり…。まあオレもよくやってしまうのだけれども、いや、よくやってしまうがゆえに、自戒もこめて今一度、客観的な立場とか、相対的な視点とかも考えに含められる幅を持っていたいなあーと思う次第であります。
まあ、みんなわかっていることだとは思うけどね!
*1:お釈迦さまことゴーダマ・シッダルタ a.k.a 釈迦牟尼世尊がいつ頃生まれたかには諸説あるので、一概に同世代人とは言えないけどね(;^ω^) これ豆知識な!